3つの視点から考える「芸」と「人柄」
「芸」と「人柄」についてツイッター上で議論が起きました。
こんな機会はなかなかありません。
言葉の定義や捉え方によってみなさんいろんな意見があるかと思います。
死んだ目さんをはじめ、このきっかけをくださった方に感謝します。
ではそこで、3つの視点から私なりに考えを述べてみます。
前提としてここでは「人柄」と「キャラクター」を同義でとらえています。
あと以下、敬称略です。
1「テレビ」上岡龍太郎
YOUTUBEに私が何度も繰り返して視聴していた
上岡龍太郎の動画がどうやら削除されてしまったようです。
なので、述べていたことを簡単に説明します。
・要点
「テレビの出現によって、大きな変化があった。テレビでは画面を通じて舞台の空気をそのまま伝えることができない。そこで視聴者にとって身近でより近い、リアリティが求められるようになった。それを追求したものが素人芸。その頂点に上り詰めたのがさんまであり、鶴瓶である。」
つまりテレビ、とりわけバラエティ番組の出現によって広い意味での「芸」のなかに「人柄」を内包したものが求められるようになったと私は解釈しました。それを上岡龍太郎に言わせれば「素人芸」なのだと思います。
ちなみに動画では「素人芸を極めたのがさんまと鶴瓶、それを逆手に取ったのがタモリと萩本欽一」とあります。
私なりの「逆手」の解釈をそれぞれしてみます。
・タモリ→素人芸のなかでもニッチな「密室芸」で知名度を上げたこと。
・萩本欽一→ストレートの意味で「素人」を起用して番組を成功させたこと。
このほかにも考えてみたい部分がたくさんありますが、
ここでは割愛します。
2「漫才」中田カウス師匠
DVD『紳竜の研究』にて中田カウス師匠が興味深いことを述べていました。
・要点
「紳竜は漫才に革命を起こした。彼らはあの時代、あの年代だからできる等身大のネタをやってみせた。今までは作られたネタをしているのが常だった。例えば居酒屋とか、せいぜいキャバレー。あのネタは彼らしか書けない、いや彼らしかできないだろう。」
かつては秋田実をはじめとする作家の方々が芸人を支えていた時代があったようです。
そこで漫才ブームがきた。芸人たちは自らネタを作り、新しい表現をするようになった。
これが若者の共感を呼び、大きな波を生んだとして、
ここでも「芸」と「人柄」が関わってくる気がします。
つまり、漫才という「芸」の中に「人柄」がそれまで以上に深く内在するようになったともいえるのではないでしょうか。これによって漫才のオリジナリティによる差別化が進んだため、「芸」に厚みが出たと考えます。
さらにB&Bの島田洋七師匠はキャラクターをふまえた上での漫才の難しさについてもこのようなことを述べていました。
「漫才のネタは芸人の年齢と共に変えないといけない。20、30で恋愛やデートのネタをやっても50ではできない。ただ、50なら健康のことや墓のことなどテーマは増える。40くらいが一番漫才の難しい時期である」と。
洋七師匠は漫才において、「人柄」の部分を重要視していたことが見て取れました。
ちなみに今ですと博多華丸・大吉の漫才は年齢をうまく利用しています。
例えば乾杯のネタでは、
テーマの乾杯の音頭ネタをすること自体がボケとなり、
もっと若い世代向けの漫才をするべきであるというツッコミが成立しています。ある意味、メタとして逆手に取っています。
3「コント」バナナマン設楽統
ではコントはどうなのか。ソースがなくて申し訳ないのですが、
バナナマン設楽がテレビかラジオで次のような発言をしていました。
・要点
「コント出身の芸人は、バラエティにおいてキャラクターの再構築をしなければならない。なぜならコントでは「キャラ」を使い分けるが、ネタによってそれぞれである。そのため、素を求められるバラエティでは漫才出身と異なり、またゼロからのスタートになってしまう。」
前述したと通り、バラエティでは「人柄」も重要です。
コントは「キャラ」で「人柄」に上塗りができるため、ネタに広がりがでます。
その一方で指摘のように「人柄」が隠れてしまった故に、
バラエティでは苦労する側面があるのではないでしょうか。
逆に漫才とは違ってステレオタイプを持たれないため、自由が利くという側面がある気もします。
漫才出身の例として、たしかにブラックマヨネーズは、漫才におけるコンビ間のキャラクターをバラエティで存分に活かしています。
特筆すべきはブラマヨ吉田のツイッターです。
つぶやきにもケチで卑屈なネガティブ思考を反映させているものが多々みられ、そのプロ意識の高さには脱帽です。
ちなみに麒麟のように漫才とバラエティおけるボケ・ツッコミの役割を変え、結果的に成功させているコンビも存在します。
最近それにチャレンジしているのがスリムクラブです。
うまいと思うのが漫才からもアプローチしている点です。
例えば、ツッコミの内間がラストのところでネタを飛ばし、
ボケの真栄田がダメ出しを入れたことがあります。
このくだりは実は故意であると私は推測しています。
彼らは漫才においてもバラエティ用の役割にシフトさせていってる
のではないかと考えています。
今までの整理をすると
バラエティ番組では「人柄」をふまえた「芸」、いわゆる素人芸が求められるようになり、
漫才での「人柄」においてもそれは同じである。故に漫才出身のコンビはその「人柄」のままでテレビでふるまうことが合理的である。
一方、コント出身はキャラで「人柄」がはっきりしないぶん、
「キャラクター」=「人柄」の再構築から始めなければならない。
まとめるならば、
バラエティ番組において、芸人は「人柄」の重要性を理解し、
そのうえで「芸」を表現するあらゆる場において
戦略的にそれを出したり、引っ込めたり
バランスを取っているのではないでしょうか。
個人的にはスギちゃんがここから先、
どの程度、長い下積み生活などの経験からにじみ出る
「人柄」を、「芸」との兼ね合いのなかで
コントロールしていくのかに注目をしています。
ここまで以上、
お笑いを尊敬してやまない、
ただのお笑い好きの一つの見解でした!