上岡龍太郎「芸人論」裏付け

2010年ネタ番組が相次ぎ終了し、
お笑い冬の時代に突入した。
しかしながら、吉本興業をはじめとするお笑い芸人は
バラエティ番組にて絶対的なイニシアチブを握り、
お笑いタレントがバラエティ番組を支配する構図を築き上げている。

そしてマクロ的にみれば、今ではライブでネタをする芸人はテレビに出られず、人気がのある一部のテレビ芸人のみがバラエティ番組を通して活躍するという、いわば二極化的な構造を生み出してしまった。

テレビ芸人はネタをし続ける芸人よりもおいしい。
島田紳助いわく「漫才はずっとネタを作らなければならないが、
テレビではフリートークさえできれば話のネタは尽きることはない」
さらにテレビ番組ではもらえるギャラも舞台よりもずっと多い。ましてやMCの位置につければなおさらである。

ただ現在ではBIG3と呼ばれる大御所を含めた
上の世代の司会者でつかえており、
ひな壇芸人は飽和状態になってきている。

こうなってくるとネタをしないテレビ芸人は、より視聴者の共感を得ようとカメラが回っていない部分まで自分を売り込むことになる。
例えばアメトークの人見知り芸人では、本来カメラの回っていない
楽屋に隠しカメラを用意して、芸人の素の部分にせまっている。
楽屋での立ち位置や、ふるまい方まで見せ、
視聴者はそれを聞いて地震のイメージと照らし合わせ、
芸人へのキャラの認識を再構築するのだ。

お願いランキングの芸人交換日記では
テレビで活躍するお笑い芸人の知られざる
泣けるようないい話として好評を博している。

視聴者のニーズはさらに進み
ネタ作りや、この芸人があの芸人をどう思っているかなど、
芸人の裏の裏まで見せなければならない時代が来るかもしれない。

一方で、毒舌芸人として再ブレイクを果たした有吉は
敏感な今の視聴者の動きを逆手にとっている。
テレビでは毒舌キャラで、裏ではやさしい素の一面を持っていると、
間接的に印象付けるのである。

われわれ視聴者はテレビ芸人の素の部分を垣間見ようとしながら
番組を視聴している。
いや、あれが素であると一方的にこちらで決めつけているのかもしれない。

逆に言えばそれぐらい今のテレビ芸人はお茶の間に一つのキャラクターとして浸透しており、テレビ芸人そのものを把握しておきたい欲求があるのだ。

これはひょうきん族を代表とする80年代的な笑いから始まった、
バラエティ番組への内輪的な空気の蔓延にも触れておかなければならないだろうが。

ゲバゲバ90分やドリフのようなきっちり作られたコントよりも
いかにアドリブっぽく見せてスタッフを笑わせる内輪的な笑いが主流となった。これは今でも根付いているように感じる。

約20年前、EXテレビという番組にて
島田紳助が師と仰ぐ上岡龍太郎はこう述べている。

「テレビの面白いところは、素人が芸をしているところか、プロが私生活を見せているか、この二つである。」

まさしくこの状況が今のテレビ芸人を表わしているだろう。
プロのテレビ芸人は身を削り、キャラと付き合いながら私生活をさらけ出す。

一方で、バラエティ番組のネタ見せにおいては、素人が一発芸や宴会芸を披露することが多い。
余談であるが素人参加型の番組は時代によって波があるようで
常に多い訳ではない。しかし、日本の素人文化は
世界のテレビ番組と比較しても特殊のようである。

私が思うに、お笑い形の多様化によってスベリ芸とよばれる
特異な芸まで確立されてしまった。
これは通常のプロの芸人にとって
いつでもスベる機会が与えられたことを意味する。

つまりしかるところでは、あえてスベったほうが
テレビ的に正解という場面を出てきたのである。

そうなってくると、視聴者にとっても
素人の方が演者とネタのクオリティが釣り合うため、
逆に安心して笑うことができるのである。

皮肉なことに素人がテレビで芸を見せて
プロの芸人がテレビで私生活を見せる。

予定調和のように、今のテレビの笑いはまさしく
上岡龍太郎の言う通りとなっているのではないか。