27時間テレビ雑感

「さんま中居の今夜も眠らない」と
「NEKASANAI STATION」を視聴し、
思うことが一つあります。

まず両方のコーナーで芸歴についての話題がありました。
デビューの遅いタモリがさんまやたけしを兄さん扱いしない話。
そして千鳥がキングコングと同期になることを嫌がり、芸歴を一つサバ読んでいた話。

ここで思ったのがNSCをはじめとする
「お笑い学校」の功罪について。
つまり、芸人の芸歴や上下関係への執着です。

もちろん良い面もありますが、サラリーマン的な序列関係は新たなムーブメントにとってマイナスに作用するとも思います。

なぜなら芸人が養成所といったそのシステムの歯車に組み込まれることによって、
必然として爆発的な売れ方ができなくなるからです。

お笑いという競技人口が急激に増えたという環境的な要因もありますし、システムを批判する気はありません。

もっとも問題なのは視聴者がその序列に敏感になってしまったことです。

例えばある若手の露出が急に増え、仮に実力が伴っていたとしても、視聴者は事務所や局がゴリ推しをしているという見方をするでしょう。
その若手がMCをしても先輩芸人はそれを崩す笑いをとってくるでしょう。

BIG3を手本とすれば、年齢や芸歴の差がそこまでなければ、芸人は対等で横並びの方が面白い。
当然、それぞれが他事務所という関係性もありますが。

それらをふまえ考えると、今後、タモリのような売れ方は難しいかもしれません。

ではどうすればという話になりますが、
非吉本の事務所の可能性についてこの機会に改めて考えてみたいと思います。

3つの視点から考える「芸」と「人柄」

「芸」と「人柄」についてツイッター上で議論が起きました。

こんな機会はなかなかありません。
言葉の定義や捉え方によってみなさんいろんな意見があるかと思います。

死んだ目さんをはじめ、このきっかけをくださった方に感謝します。
ではそこで、3つの視点から私なりに考えを述べてみます。

前提としてここでは「人柄」と「キャラクター」を同義でとらえています。
あと以下、敬称略です。


1「テレビ」上岡龍太郎
YOUTUBEに私が何度も繰り返して視聴していた
上岡龍太郎の動画がどうやら削除されてしまったようです。
なので、述べていたことを簡単に説明します。

・要点
「テレビの出現によって、大きな変化があった。テレビでは画面を通じて舞台の空気をそのまま伝えることができない。そこで視聴者にとって身近でより近い、リアリティが求められるようになった。それを追求したものが素人芸。その頂点に上り詰めたのがさんまであり、鶴瓶である。」

つまりテレビ、とりわけバラエティ番組の出現によって広い意味での「芸」のなかに「人柄」を内包したものが求められるようになったと私は解釈しました。それを上岡龍太郎に言わせれば「素人芸」なのだと思います。

ちなみに動画では「素人芸を極めたのがさんまと鶴瓶、それを逆手に取ったのがタモリ萩本欽一」とあります。

私なりの「逆手」の解釈をそれぞれしてみます。
タモリ→素人芸のなかでもニッチな「密室芸」で知名度を上げたこと。
萩本欽一→ストレートの意味で「素人」を起用して番組を成功させたこと。

このほかにも考えてみたい部分がたくさんありますが、
ここでは割愛します。


2「漫才」中田カウス師匠
DVD『紳竜の研究』にて中田カウス師匠が興味深いことを述べていました。

・要点
紳竜は漫才に革命を起こした。彼らはあの時代、あの年代だからできる等身大のネタをやってみせた。今までは作られたネタをしているのが常だった。例えば居酒屋とか、せいぜいキャバレー。あのネタは彼らしか書けない、いや彼らしかできないだろう。」

かつては秋田実をはじめとする作家の方々が芸人を支えていた時代があったようです。
そこで漫才ブームがきた。芸人たちは自らネタを作り、新しい表現をするようになった。

これが若者の共感を呼び、大きな波を生んだとして、
ここでも「芸」と「人柄」が関わってくる気がします。

つまり、漫才という「芸」の中に「人柄」がそれまで以上に深く内在するようになったともいえるのではないでしょうか。これによって漫才のオリジナリティによる差別化が進んだため、「芸」に厚みが出たと考えます。

さらにB&B島田洋七師匠はキャラクターをふまえた上での漫才の難しさについてもこのようなことを述べていました。

「漫才のネタは芸人の年齢と共に変えないといけない。20、30で恋愛やデートのネタをやっても50ではできない。ただ、50なら健康のことや墓のことなどテーマは増える。40くらいが一番漫才の難しい時期である」と。

洋七師匠は漫才において、「人柄」の部分を重要視していたことが見て取れました。
ちなみに今ですと博多華丸・大吉の漫才は年齢をうまく利用しています。

例えば乾杯のネタでは、
テーマの乾杯の音頭ネタをすること自体がボケとなり、
もっと若い世代向けの漫才をするべきであるというツッコミが成立しています。ある意味、メタとして逆手に取っています。


3「コント」バナナマン設楽
ではコントはどうなのか。ソースがなくて申し訳ないのですが、
バナナマン設楽がテレビかラジオで次のような発言をしていました。

・要点
「コント出身の芸人は、バラエティにおいてキャラクターの再構築をしなければならない。なぜならコントでは「キャラ」を使い分けるが、ネタによってそれぞれである。そのため、素を求められるバラエティでは漫才出身と異なり、またゼロからのスタートになってしまう。」

前述したと通り、バラエティでは「人柄」も重要です。
コントは「キャラ」で「人柄」に上塗りができるため、ネタに広がりがでます。
その一方で指摘のように「人柄」が隠れてしまった故に、
バラエティでは苦労する側面があるのではないでしょうか。
逆に漫才とは違ってステレオタイプを持たれないため、自由が利くという側面がある気もします。


漫才出身の例として、たしかにブラックマヨネーズは、漫才におけるコンビ間のキャラクターをバラエティで存分に活かしています。
特筆すべきはブラマヨ吉田ツイッターです。
つぶやきにもケチで卑屈なネガティブ思考を反映させているものが多々みられ、そのプロ意識の高さには脱帽です。

ちなみに麒麟のように漫才とバラエティおけるボケ・ツッコミの役割を変え、結果的に成功させているコンビも存在します。

最近それにチャレンジしているのがスリムクラブです。
うまいと思うのが漫才からもアプローチしている点です。

例えば、ツッコミの内間がラストのところでネタを飛ばし、
ボケの真栄田がダメ出しを入れたことがあります。
このくだりは実は故意であると私は推測しています。
彼らは漫才においてもバラエティ用の役割にシフトさせていってる
のではないかと考えています。


今までの整理をすると

バラエティ番組では「人柄」をふまえた「芸」、いわゆる素人芸が求められるようになり、

漫才での「人柄」においてもそれは同じである。故に漫才出身のコンビはその「人柄」のままでテレビでふるまうことが合理的である。

一方、コント出身はキャラで「人柄」がはっきりしないぶん、
「キャラクター」=「人柄」の再構築から始めなければならない。


まとめるならば、
バラエティ番組において、芸人は「人柄」の重要性を理解し、
そのうえで「芸」を表現するあらゆる場において
戦略的にそれを出したり、引っ込めたり
バランスを取っている
のではないでしょうか。


個人的にはスギちゃんがここから先、
どの程度、長い下積み生活などの経験からにじみ出る
「人柄」を、「芸」との兼ね合いのなかで
コントロールしていくのかに注目をしています。



ここまで以上、
お笑いを尊敬してやまない、
ただのお笑い好きの一つの見解でした!

感想 『希望論』 宇野常寛 浜野智史

冒頭に「希望論というタイトル付けには抵抗があった」とあります。具体的な提案がネットに依存しているとの批判もわからなくはないですが、社会の動きを理論づけて終始するようなものよりは実用的ではないでしょうか。

大枠としては、震災後、復興に際して地域コミュニティや共同体の再生が謳われる一方、現代日本の社会システムでそれは現実的ではない、であればソーシャルメディアが良いのではないか。そこからインターネットの可能性について言及されており、ある意味で期待通りの内容です。

テレビに対して一点だけ言及します。本書では、テレビの「情報の完結性」を軸として捉え、それが強いと映画的、弱いとインターネット的に傾くと述べています。映画的にはそこに物語性があり、萩本から松本までのカリスマ芸人が出現した。現代は物語が失効し、「アメトーク」や「M-1グランプリ」などゲーム化した番組が増えている。

そして

『「大きなゲーム」を設定することで、それをプレイする無数の若手芸人たちの「小さな物語たち」を視聴者に選択してもらう』

と。

つまり、物語性が失効した現代では、ゲーム・競技化した番組によって人工的に物語を創出している。現代でそのもっとも成功した「大きなゲーム」がAKB48である。ふむふむです。

この観点は私にはなかったので大変刺激的でした。まさかM−1とAKBの総選挙がつながるとは。

あえて申し上げるとすれば、では萩本から松本をはじめとするカリスマ芸人が出現した「大きな物語」とはいったい具体的にどのようなものであったか。若干、ゲームと物語の定義があいまいな部分がありました。しかし、社会(世相)と芸能界、しいてはお笑いを結びつけて考えることは興味深く、過去のお笑い史を知る上でも重要と考えています。

過去にそのような本は存在しておりますが、80年代後半の漫才ブームのネタを扱ったもので限定的です。ある意味で、「なぜ社会は松本人志を生んだのか」のようなタイトルになるのでしょうか。既にたくさんの著書がありそうですが、存じ上げておりません。

オススメの本がありましたら教えていただきたいです。

そして『希望論』は大学生(特にメディアを専攻する方)にとってはなじみやすい名著だと思います。ぜひ、オススメ致します。


希望論 2010年代の文化と社会 (NHKブックス)

希望論 2010年代の文化と社会 (NHKブックス)

なぜ「今崎ホセ」は爆笑を生んだのか

2012年、最初のTwitterのHOTワードは「今崎ホセ」だそうです。
これは年末の『絶対に笑ってはいけない空港24時』にて
山崎邦正が発した言葉です。

さまざまな笑いが散りばめられた今回のシリーズで、
なぜ「今崎ホセ」がここまで笑えたのか。
語感の響き、センスもさることながら
私の結論は、緊張と緩和の二重構造です。

そもそも緊張と緩和とは、かつて桂枝雀が提唱した笑いの理論です。
緊張が緩和されたときのギャップ、落差によって笑いが生じるという、いたって基本的な考え方です。

例えば、先生がもの凄い剣幕で説教しているときに
鼻毛が出ているのを見て、吹き出してしまうって話。
これは説教中の緊張感が鼻毛によって緩和されています。
このように緊張と緩和は日常のそこらに転がっているのです。

そしてもちろん、テレビはこの理論を能動的に活かし、
笑いに昇華させています。

例えば『ゴットタン』マジ歌選手権の審査
にも活かされています。
審査員の口に牛乳を含ませ、笑いに制約をかける演出です。
牛乳を吹くとその画が視聴者への笑いの訴求ポイントにもなるという、一石二鳥になっています。

今回はその緊張と緩和自体が二重になっていたので
順を追って述べていきます。


一つ目としてまず「絶対に笑ってはいけない」という
番組コンセプトそのものに伴う緊張と緩和です。

番組中、笑うと罰ゲームでお尻を叩かれるシステムが
常に作動しています。
一見シンプルですが、この緊張は視聴者にとっても
間接的に作用しているといえましょう。

根拠として、ふかわりょうのケースを挙げます。
以前、彼がこのシリーズに出演して
一言ネタを披露したことがありました。

普段ならマンネリ化して笑えないのに、
そのときはどうもおかしくて仕方がなかったのです。
なぜか。それは私=視聴者に対しても「笑ってはいけない」
という緊張が作用したからです。

本来、芸人のネタをお笑い番組で観るときは、
笑おうという意志が働くぶん、ハードルも上がります。
しかし、笑いが制約された状況では緊張が生まれるので、
緩和もそのぶん生まれやすい、つまり笑いやすくなるのです。

ふかわりょうはボディーブローのように、
言葉でじわじわと笑わせてくるタイプです。
その意味で、ストレートから変化球まで刺客をうまく利用する
ガキの使いのキャスティングは秀逸です。


以上のように「絶対に笑ってはいけないシリーズ」は
企画そのものに緊張と緩和を組み込んでいます。


二つ目として、山崎の「名前を言ってはいけない」という制約です。
「今崎ホセ」はその緊張を一気に解放しました。
それでは具体的な内容に入ります。

毎年、絶対に笑ってはいけないシリーズには
蝶野正洋の理不尽ビンタという
山崎邦正をいたぶるコーナーなるものが存在します。

今回の空港編でも、山崎邦正が容疑者の疑いをかけられます。
CAのダイイングメッセージに「犯人はヤマザ…」とあり、
蝶野が一人ずつ名前を聞いて問いただしていくシーンです。

・名前をごまかさないとビンタされるという背景。
・その名前を山崎が最後に返答する流れ。

これらの見事な演出によって、
山崎が返答する前に緊張感が最高に高まります。

蝶野:名前は?って聞いてんだよコラ!
山崎:…今崎邦正です。

蝶野:面白いな。ほらもう一回言ってくれよ
山崎:今崎です。今崎ホセです。

蝶野:みんなに向かって言え!名前は?
山崎:今崎ホセです!

映像でご覧の通り、
松本さんの「たまんらんわ、そんなん」や
モニタリングしている浜ちゃんの爆笑、うなずけます。
よく見ると、後ろのエキストラさん方も笑いを
ぐっとこらえているのがわかります。

山崎邦正の一貫して嫌がる態度と見事な返し。
蝶野の何回もてんどんのように言わせる流れ。
それらを導くスタッフの演出。
どれをとっても最高です。


このように上記の二つの緊張の縛りが
一気に緩和してメンバー内に笑いが起こったのです。
もちろん、私たち視聴者にとっても
爆笑として「今崎ホセ」は記憶に残るはずです。

番組は、紅白の裏ながらも
前半18.7% 後半16.6%と、
シリーズ最高記録を更新しました。

他にも見所はたくさんあります。
今回はお笑いの教科書通りとして
緊張と緩和の理論をフルに体現した
日テレ、三冠王をふくめてあっぱれ。

さまぁ〜ずと社会学

さまぁ〜ずのネタで「キノコの話」というものがあります。
おそらく2006年の爆笑ヒットパレードで披露されたもので、
YOUTUBEにUPされたこのネタは今や100万回以上再生されています。

個人的にも大好きなネタですが、これを観ていて思う節があったのでここに記します。

まず、このネタはさまぁ〜ずには珍しい漫才コントです。
動画のコメントには、このネタでM-1に!なんてものもありました。
実際、道具を一切使わず、二人とも立ち状態で会話で成立させています。

そして内容はエピソード型です。これは漫才によくある形で一人がエピソードを話していき、相方がそれに乗っかったり、割り込んでボケを入れたりしていくものです。

使い手として中川家が正統派、これを逆手に取ったのがオードリーと私は考えています。例えば中川家。弟・礼二が川で子供を助け、病院まで救急車で運んだ話をするも、兄・剛が逐一ちゃちゃを入れていくというネタです。

今回のさまぁ〜ず「キノコの話」は、二人がお笑いを始める前に山へきのこ狩りに行き、崖で転んだ三村を大竹が助けたというエピソード。これを三村が進めていきます。

そして大竹がちゃちゃを入れていく、というシンプルなものですが
実はかなり計算された緻密なネタだと考えるようになりました。
では冒頭の部分を紹介します。

三村:きのこ狩りに行った話ならあるよ、お笑い始める前に。
大竹:なんでお笑い始める前におれと行ったの?
三村:いやあの友達だったから
大竹:なんで友達だからってきのこ狩りに行ったの?
三村:食うから。きのこ食いたいから
大竹:あぁ食いたいから。えっどうやって?

このように、大竹はちゃちゃを入れるというよりも既成事実そのものに質問を投げかけていきます。
三村はきのこ狩りに行った話を二人の共有体験として話そうとしますが一方で大竹は、まるで自分は行っていないかのようにふるまいます。

実はこの会話の前提を壊す手法は
社会学エスノメソドロジーに応用されています。

これは、日常生活での会話の秩序をあえて壊すことによって、目には見えないその秩序の「存在」を明らかにしようとするものです。

社会学者のガーフィンケルは違背実験というものを行っています。例えば、ある学生に、実家に帰ったときに下宿人のようにふるまわせるという内容です。

これによって家族の秩序をあえて壊し、家族のあたりまえを見ようとしたのです。これでどうなるかというと、家族は初めはとまどいますが、次第に説明を求め、しまいには怒り出すのです。

この性質を「キノコの話」ではうまく活かせています。
ちなみにネタにキレやヒートアップさせる要素を含ませ、自然な流れで勢いをつけることは、コントを作る上での課題でもあります。

三村はとまどいながら話を進めていくも、大竹が二人で行った前提を壊し、さらに対象をずらした質問を続けることで三村はついにキレます。時間でいうと2分8秒あたりから。

三村:で、きのこ取ってたら足すべらしちゃったんだよ
大竹:おぉ。それで?
三村:そしたら崖から落ちちゃったんだよ
大竹:えっなんで?なんで?
三村:そこに崖があったから!!

この感情の起伏がネタの勢いを増し、身ぶり手ぶりを使って本気のように見せる三村にこちらは引きこまれ、思わず笑ってしまうのではないでしょうか。

ここからボルテージがどんどん上がっていきます。
大竹のずれた問いかけから三村は、否定→修正→仮定→実践をこなすことで話をさらに膨らませていっています。


会話をするときには、互いに経験を共有している前提で話すため、あいまいにし、ある程度を省略するという文脈依存性があります。
つまり、会話は相互的なプロセスがあって達成されているのです。

さまぁ〜ずはこの会話秩序を壊し、ネタに昇華させています。
本人には自覚はないと思いますが当てはまるだけでも!と感じます。

そして三村のキレは段階的であり、怒りに説得力が出てきます。
故にピークに達したときには、他をより巻き込むことができるのではないでしょうか。

一見、アドリブにさえ見え、シンプルなネタと思いきや
社会学に基づいたネタという側面もあるのです。

お笑いはよく、常識がわかっているからこそ非常識なことができる
というふうに言われることがありますが
まさしくその通りかもしれません。

他にもこのような事例にたくさんあるかと思います。
ある意味で笑いに対する見方が自分の中で変わりました。


お笑いってすごい。

すべり笑いにはこれが必要。「フォロー」と「ワンテンポ」

ずっと思っていたことがあります。
それは、すべり笑いは集団芸ということです。
そして、素人の世界でもうまく応用することができる、と。


そもそもすべり笑いってなんでしょうか。
すべり笑いとは、すべった後の空気、またフォローによって引き起こされる笑いです。

本題に入る前に興味深いツイートがあったので紹介します。
テレビ東京の深夜番組『アリなし』にて、ふかわりょう
「すべり笑いは必要か」というテーマでこう述べたそうです。

「すべり笑いってあっていい。ただ自分が芸人としてすべりたくないという気持ちがあるかが一番大事」。

心の底からなるほどな、と思いました。
自分が芸人としてすべりたくない気持ちがあるか。
つまり、その気持ちがあるかのように観客や視聴者に見せられているかが重要なのです。

なぜその気持ちが重要か。

追って説明します。
前述したようにすべり笑いは、すべった後のフォローによって笑いが起こります。
このフォローは、基本的に本人のものと他者からのものと二通りあります。

例えば、誰かがすべると

「テレビでこんなにシーンってなることある!?」

となかばツッコミが入ることがあります。
雨上がり宮迫、東野、千原ジュニアフット後藤、有吉、ザキヤマなどMCからひな壇芸人に至るまで、多くの芸人がこのようなベクトルでフォローを入れています。


「え〜と、クレームはこちらの宛先までお願いします。」

このように、本人によるフォローもあります。
とくに南キャン山ちゃんの追いつめられたときの切り返しは秀逸です。また、ピース綾部がよく「今のキャンセルでお願いします」と言いますがこれもすべった後の本人フォローです。


補足すると、すべった後の本人フォローで「キレ芸」と呼ばれるものもあります。
ただし、キレ返しはめちゃブリで何かをやらされた後のすべりに限定されます。
それを満たす場合は、すべって当然だという態度でキレることでむしろ大きな笑いにつながります。

自虐的なフォローよりも語彙は少なくてすみますが、キレ加減を空気に合わせなければなりません。
その意味では、カンニング竹山を代表するすべり後のキレ返しは技術を要していると考えられます。


これらフォローをすべった後に挿し込むことで笑いが起こります。
考えてみると例では、周りはすべってしまったことを突いて笑いにし、本人はすべったことに対する自虐的なフォローで笑いを成立させています。
つまり、そこにはすべろうとしてすべったわけではない、という前提が存在します。そしてそれが必要なのです。

○○しようとしてできなかった。この逆説的な
過程や結果は観客や視聴者に伝わりやすく、笑いに直結します。
笑いの方程式ともいえましょう。

この方程式を守るためにテレビでは、芸人はその前提をお約束として、番組内でやりとりをしているのです。ゆえにすべり笑いにはプロレスの要素があるといえます。すべる本人、他の演者、観客、それぞれがいわば協力して成立させている。

つまり、すべり笑いとは集団芸なのです。

ちなみにすべり芸を認めない明石家さんまが、
すべり芸の先駆けである村上ショージを重宝していることは矛盾ではありません。さんまの好む集団芸、パターン芸に「すべり笑い」は組み込まれているのではないかと私は考えています。


仮にすべってもかまわず、どんどんすべり球を放っていくとします。
すると、ウケを狙ったのにすべった、という構図が崩壊します。
周りもフォローが入れづらくなり、後に本人が入れても
観客には迷いを含んだゆるい笑いしか起きず、
番組の空気もうわついてしまいます。

このように上記の単にすべりちらすものと、ルールに則ったすべり芸の笑いには、似ているようで大きな差があるのです。


ここまでフォローについて述べてきましたが、次にワンテンポに触れたいと思います。
タイトルの通り、すべり笑いには「フォロー」と「ワンテンポ」が必要であり、
このワンテンポも軽視することはできません。

例を挙げます。
めちゃブリはテレビ、もちろん素人の世界にも存在します。
そこでなにかやらざるを得なくなった人が渾身の一発芸を披露したとします。
やりきった後の静寂、そして皆が「すべった瞬間」を共有し、笑いが生まれる。

つまり、この共有する僅かな時間の間がワンテンポなのです。
プロなら+αでワンフォロー入れることもありますが、素人はすべった自身のすり傷に気を取られがちです。

それがゆえに素人は、
「うわ、こわいこわい」や
「だから、やりやくなかったんだよ〜」などの
自己保身的なフォローをすべりきっていないところで入れてしまうことがあります。

しかし、これらフォローでも、すべってワンテンポ後に入れれば笑いの量が圧倒的に変わります。
突きつめればおそらく0・何秒、そんな世界です。

すべった後の静寂を全体で感じることで一体感が生まれます。
そして、ギャグ→すべりきる→という順を追うことで「すべり芸」としての笑いが自然にわくのです。


このワンテンポを非常にうまく使っているのが、ますだおかだ岡田です。
彼のすべりの間はずばぬけていると見ていて感じます。
あえてすべろうとするすべり芸は革新的である意味タブーですが

ギャグ→すべる→ワンテンポ→笑い
この流れをしっかり踏むことができている芸人といえましょう。


まとめると、素人に気のきいたフォローは難易度が高いです。
しかし、ワンテンポの間は活用できます。

FUJIWARAの原西のように一発ギャグに絶対的な自信があるわけではない、だがどうしてもなにかしないといけない状況になってしまった!
そんなときはおそれずにすべるのも一つの手といえるでしょう。

しかしながら、すべり笑いを狙いにいったのに、周りが中途半端にウケてしまう場合もあります。
というのは、すべらせるのは可哀想という同情笑いが出る可能性があるのです。

そこですべり笑いでいくのなら、周りがあえてポカーンとさせることを狙うのも方法です。
そしてその後、ウケを狙ったのにはずしてしまった、という意図が伝わるフォローを入れれば
すべり芸により近い笑いが起こるでしょう。


※すべり笑いはプロレスの要素がある、
つまり周りの見ている人の配慮が必要です。

これが見込めない場合はご注意ください。
ふかわりょうによれば、すべり笑いには良性と悪性があります。
フリをしておいて無視をするような悪意のあるすべり笑いも残念ながら存在します。
フォローの重要性は以前このブログで述べましたが、くれぐれも気を付けていただきたいです。


ここまですべり笑いについて考察しましたが、実に深い領域であることがわかりました。
すべり笑いを日常生活で応用することで
コミュニケーションによる笑いの幅が広がってくれることを祈っています。

芸人の言いかえテクニック

テレビを観ていてお笑い芸人の発言に対して
うまいな〜って関心するときありませんか。

この「うまい」について思う節がいくつかあったので記します。

先日、はなまるマーケットを観ていたときのこと。
ゲストはまえだまえだ。
兄弟のロケがあり、そこでの兄のツッコミに対して
スタジオではやっくんや岡江さん含め、みんなから
「うまいなぁ」という
関心の笑いが起こりました。

それはロケでの食品のサンプル作り体験での一コマ。

エビの天ぷらのサンプル作ろうとして
弟がエビに衣をしっかりつけなかったことに対しての兄の発言です。

本来なら
「衣が全然ついてないやん!」
のような直接的な描写に近いツッコミになりがちです。

しかし兄はそこで

「うわ!ヘルシーになってるやん!」

とツッコミを入れたのです。

ここでは表現の言いかえが働いています。
エビに衣がついていない→油が少ない→ヘルシーやん
シンプルに表すとこうなります。

この言いかえのメリットは利便性の高さです。
ツッコミにも使えるし、MCへの返しとしても有効です。

そして大それたことを言ってなくても印象に残りやすく
発言もテロップになりやすいことがあげられます。

また、例えツッコミだと狙いすぎて失敗するリスクがありますが
言いかえではコツさえつかめば比較的にすべることはありません。

あえて直接的に言わないテクニックであり
現在では、フット後藤ブラマヨがうまく利用していると感じます。

私はそこまでテレビはチェックしてませんが
最近ちょっと観たなかでも
いくつか「言いかえテクニック」がみえました。

まずブラマヨ吉田
ホンマでっかTVでの、写真のうつりかたのくだりにて。
明石家さんまにブツブツを隠すために、
両手で顔を押さえればいいやんと言われたことに対しての返しです。

直接的だと
「ほんなら僕が誰なのかわからないじゃないですか!」
みたいになるでしょう。

しかし、ブラマヨ吉田はこう返しました。

「僕だけ思い出を残せてないじゃないですか!」

実際これで笑いが起こっていたし、それを観ていた
私は相変わらずうまいな〜っと思ったのです。

この「うまい」という感覚はやはり言いかえによるものです。

両手で顔を隠す→写真なのに誰だかわからない→思い出に残らない

ブラマヨ吉田はそこに自虐的な要素を含めることもできるため、
らしさが出ますし、小杉もまたそれに返せる強みがあると思います。

ではフット後藤の例を。

ゴットタンのマジ嫌い企画に呼ばれた後藤。
基本その芸人ありきで企画が成立するため
なかなか簡単な仕事ではないようです。

そこで前回に出演したときも同様の企画だったことに対して。

これを直接的に表現すると
「また体力使う企画やないですか〜」
こんなかんじになるでしょう。

フット後藤はこう言ったのです。

「なんでカロリーの高い企画ばっかり呼ぶんですか!」

体力を使う仕事→負担がかかる→カロリーが高い

ここで特筆すべきことは
本来では組み合わせない言葉をあえて用いて
言いかえている点です。

カロリーという言葉は基本、食品に対してのみ用いるものです。
しかし、それを体に負担がかかる、という共通要素から
「カロリーが高い企画」
と表現しているのです。

共通要素を踏まえたうえで言いかえることで
それは不自然に思われず
むしろ印象に残すことができるのです。

一般の人が負担の多い仕事に対して
この「カロリーが高い」という表現を
使うケースも出てきています。


最後にこれは聞いた話ですが
さらにフット後藤
過去に、ゴリラに似ている人に対して

「四捨五入したらゴリラですよ!」

と発言したそうです。

ここでもゴリラに似ているという点から
ほぼそれに近い、という共通要素を導きだし
四捨五入という数の用語でうまく表現しています。


まとめると芸人は
あえて直接的な表現を言いかえることによって
「うまい」と思わせるテクニックを使っています。

そしてフット後藤ブラマヨはじめとする芸人が利用する
高等なものも存在します。

言いかえをしつつ
それにふだん組み合わさない言葉を取り入れることで
よりインパクトを出しているのです。

くりぃむ上田が一時期注目を浴びた
直接的な例えツッコミとは違う、
間接的な言いかえのツッコミや返しが現在、
テクニックとして主流になってきているのではないでしょうか。

間接的な言い回しを訓練することで、
素人でもある程度は表現に磨きをかけられる気がします。