すべらない話はすべらせない話?

すべらない話は初期の方がよかったなぁ
なんて番組当初を懐かしむ人も少なくないのでは。

DVDを除いて
通常のテレビ放送なら全て見てきたし
個人的にも大好きな番組である。

ただ最近ではイベント化し
ゴールデン放送でまるでお祭りのよう。

開会宣言として歌手が一曲歌いあげることもある。
その5分あればもう一つ話をオンエアできたのに〜という
心のつっこみはここでは置いておきましょう。

さてなぜ番組当初の方がよかったとなるのか。
一言で表すと

「すべらない話がすべらせない話になってきた」

これに尽きるんじゃないかと思う。
深夜時代には独特の緊張感があったといわれる。
当時は画期的だった。サイコロでトークなんてごきげんよう
お昼感覚のものしかなかったし。
とにかく番組が芸人の内で成立していた。
前身のカプリチョーザ杯にはそもそもカメラもなかったはず。

ただ注目が浴びるにつれて
番組の規模が拡大する。

すると演者の意識が芸人同士の中から
外に移ってしまうようになった。

具体的に言うと

「ここですべったらトークできないレッテルを
張られてしまい、これからの番組に支障がでる」

というような外向きを気にする心理になる。
収録当日にスタジオまでのバスの中で
実際に何人かの芸人がそれに近いことを口にしていた。

つまり芸人同士の内での緊張感よりも
プレッシャーがそれを上回ってしまうようになる。
ゴールデン放送であることや大勢のギャラリー、注目度が
あるため仕方のないことでもある。

そうなると自ずと本番では
必要以上に周りの芸人をいわばヨイショするようになる。
すべる=失敗ならば
失敗はしたくないし見たくもないのである。

過度に温まった空気はやがて違和感と見えるときがくる。
現状として参加者もかなり増えたことで
一つ一つがすべらせないトークの披露大会なってきている。

すべらない話というパッケージは
むしろダウンタウンDXのものに近づいている気が。

そして大変なのがレギュラーとして
毎回出てる演者、特に松本さん。

引けるに引けない状態になっているのではないか。
今では演者が増えて当たる確率は下がっているが。

というのも松本さんがこのすべらない話のシンボル的な
存在になっているのは本人が一番よくわかっているはずである。

引けないのはあともう一つ。
松本さんがもし話さなくなったらその時点で
「松本さんにはもう話がないんだ」
という見方をされてしまう危険性があること。
これは千原ジュニアさんらにも通じることであるが。

番組が続く限りは話し手として出続けるだろうなぁ。
一方で話のストックよりも築いてきた話のクオリティ
を大事にするとも考えられるのだが。

見てる方はあまり感じないが
話によって番組に向き不向きがある。
その中で当然クオリティも考慮しなければならない。
すべらない話は確実に有限である。

番組のシステムとしては画期的であったが
このすべらない話の本家の寿命は
はたしていつまで続くのだろうか。

いや、というよりはいつまで続けてくれるのでしょう。